昭和53年 6月18日 朝の御理解

御理解第58節 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ」



 「神がよく見ておる」と、「しっかり信心の帯をせよ」と。神様は見ておいでである、または聞いておいでであると。これが分かり、信じれるところから、あー、例え、人が悪口を言うても、それはもう極端な悪口ですよね、泥棒じゃとか乞食じゃとか、例えば言われても、ね、その都度にしっかり信心の帯をしていけと、ね。だから、神様がね、神様が見ておいでであると。聞いておりでであるということを信じれるまでが、やはり信心辛抱ですね。
 それから、あー、信心の帯をしっかりせよとこう仰る。信心の帯をしっかりということは、信心に、いわゆる、うー、(みつじょう?)をかけよと、信心に、言うならば一段と一生懸命になれよとこういうことでございましょう。神様が見ておいでである、神様が聞いておられるのだと分からしてもらう。けども、それが本当に、信じれ、それが分かるようになったら、信心も楽しい事でしょうね。
 その度に信心の帯びを締めていくということは、言うならば一段とまた、信心を進めていくということなのですから。
 昨日、合楽会でございましたが、あー、指出の久保山さんという方が熱心に毎日、日参をしてみえられます。この方は、もうここでお届けをされることは、今日もどうぞ、成り行きを一日、成り行きをいよいよ、大事にさして下さい。もう毎日このことばっかりです、願われることは。もう、まあ数年の信心です。から、信心は、あー、後者ということじゃないけれども、ただ、その、成り行きそのものの中に神様の働きがあっておるんだと。その成り行きそのものが、神様なのだというふうに、だんだん信じてこられるようになった。
 それが、だんだん、あー、分かってみえた。そして、黙って治めるということの有り難い体験を積んでいかれた。だから、どういうような場合であってもです、なら今日の御理解で言うならば、乞食じゃと言われても、泥棒じゃと言われても、それを黙って受けていく。ね。これは成り行きを大事にする、さして頂く稽古とはそういうことだと思うんです。
 最近は、えー、この頃からご長男が、うーん、奥さんをもらわれました。まあ、親子兄弟、えー、子供達、いー、みずいらずの時には、もう実にスムーズに成り行きを黙って治めるということが、あー、できられる。ところが、まあ普通で申しますように、他人が入るとなかなかのというふうに申しますよね。他人が入るということは、嫁さんをもろうたり、婿をもろうたりというような意味なんです。他人が入るとなかなか、みずいらずでいきよったようにはいかない。
 やはり、生活環境も違うところから、あー、なら久保山なら久保山の家に入って来られるのですから、やっぱりそうでもあろうと。ですから、今までよりも、ちょっと成り行きを大事にするということが少し難しゅうなってきた。ね。そこで、久保山さん、思われたんですよね、これは今までのような信心ではいかん。それが信心の帯びをしっかりするということじゃないでしょうかね。何かの(?)。
 だから、今までのような信心ではいかん、とまた一段と工夫をして、えー、おかげを頂かれる。
 昨日は、何か田植えが始まっている訳ですね、でも、夕べ見えたのは、10時頃じゃなかったでしょうか。もう遅いから、ちょっと顔だけでも出してくると。今までの私ならば、もう主人も、今日はお前はこげん遅から、御無礼すりゃよかじゃないかと、申しますから、ほんに、それもそうたいと、一日やっぱり疲れておられます。しかも、時間もこんなに遅くなって、えー、ね、それでもちょっと顔だけぐらい出さしてもらわにゃと言うて、まあ、参りましたと、こう言われるんです。ね。
 だから、その、みずいらずの時には本当に成り行きを大事にしていく、黙って受けていくという、それがだんだんスムーズにできて、もうそれこそ、こっておるとも言わんごたる家庭生活が営まれておったけれども、さあここに他人が入ってくるとそういう訳にはいけないことになってきた。というてそこにがたがた言いよったんでは、日頃頂いておる信心の値打ちはないから、今までのような信心ではいけんというので、一段といろいろに工夫をされた。
 普通だったら、もう例えばこんなに疲れて、こんなにもう遅うなったから、例え近くではあっても、もう今夜はご無礼しようというところを、ね、その工夫がそういう精進になってきた。昨日の発表なんかも、それを聞かせて頂いておって、本当に有り難かのうち言うてから、まあ皆で関心したことでしたけれども、もう先生この頃は、その難しい中に、黙って収めるということの素晴らしいこと。ね。ちったあ、無理がいくぐらいにあるところを、生神金光大神様、天地金乃神様、どうぞ、この成り行きを大事にさして下さいと言うて、一日を締めくくらせていただく時の有り難さは、もう言葉には言われんち。
 昨夜もご飯の時に、ご飯を頂き、頂き、もう涙がこぼれて涙がこぼれてしょうがないのを有り難う、その有難うして、それで、立ってから、鼻かみに行ったら、嫁子が風邪ひきなさったのち(笑い)、申しましたという話をしておられます。ね、確かにね、一日を、例えば本気で成り行きを大事にさしてもらう、その中身にはです、乞食と言われるようなことがあるかもしれん、泥棒と言われるようなことがあるかもしれん。みずいらずで、こっておるとも言わんごとでやっておる時には、本当にただ、有り難い有り難いだったけれども、そこに他人が入ってくると、そんな訳にはいかんと一般に言われるが、確かに、やはり少しは難しか。
 そこでです、今までの信心ではいかんと気付かれたところが私は今日の御理解で言うと、ね、信心の帯びを、言うならば締め上げられたところじゃないでしょうか。今までよりか難しい。それに、例えば、難しいところに取り組んで、今日も一日成り行きを大切にさして下さいと言うて、願い、それがまあ失敗する時もあります。ね。けれども、おかげでそれを失敗せずに、今日も一日、本気で成り行きを大事にさして頂いたと思うて、一日を締めくくってお礼を申し上げる時にはもう感動がね、昨日の晩だけ、夕べの話ですけども、昨日だけはその感動がね、もうその、高まるばっかりで、その、まあ衰えなかった訳、喜びが。
 それで、お食事をされる前にも、ずっとその事を、今日もおかげで一日、本気で取り組まして頂いたと思うただけで、その、胸がいっぱいになってくる。それこそ、立ち上がって涙を拭きに行かんならんことになる。ね、そういう例えば、有り難いものがだんだん身についてくると、( ? )、ただ、成り行きを大事にさして頂く。その成り行きの中には、様々な事がある。ここで一口言うとかねばと。ね。
 また、カチッとくるようなこともあると。けれどもそこを一生懸命、成り行きを大事にされる。ね。今までは、ね、( ? )ても、言うならば、あー、子供やら知人やら、ばっかりの、言うならみずいらずの中であったから、それが本当に有り難い教えを、ね、身をもって行ずることが、見易う、案外できたけれども、他人が入るとそんな訳にはいかん。ね、けれども、そこで今までのような信心ではいかんと、こう、言うならば、普通で言うならば、もう今夜はご無礼するというところでしょうけれども、その、今までの信心ではいかんというところにです、ね、いや、ちょっと顔だけでも出さにゃと言うて、出てきましたと。
 特に腹を、言うなら信心の帯を締めるということは、そういうこと。それがいつも同じようなことだから変わったことになってくると、もうそこで失敗をするとような結界になる。成り行きを大事にさして頂くという、そのことだけでもです、やっぱり今までのような信心ではいかんと。そういう、言うならば信心がね、身についてまいりますと、ね、もうとにかく、ここを辛抱しぬかせて頂くということが、ね、有り難いという体験になってくるし、同時に、ね、一日を修行さして頂いた時の有り難さというものは、もうそこを頂きぬいた者でなからなければ分からない味わい、有り難さというものを感じることができる。ね。
 そこがね、信心の有り難いところであり、または、楽しいところであり、ね、言うならリズムにのった生き方を身につけていく時、などはもういよいよ、信心生活が愉快なものになってくるほどしのおかげを頂くことであろう。一日の内どういうことがあっても、ね、それを黙って受ける、成り行きを尊ぶ、成り行きを大切にさして頂く、そこからいよいよ、なるほど神様が見てござるなあ、聞いてござるなあということが、いよいよ確信付けられてくる。いよいよ分かってきたら、そこにいつも安らぎの心、ね、いつも喜びの心を頂き続ける事ができると思うですね、どうぞ。